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森有礼(もりあれい)の生誕地

森有礼は、1847年(弘化4年)鹿児島市長田町に生まれました。
1885年(明治18年)わが国、初の伊藤博文内閣成立の時、その国際的見識をかわれて文部大臣に就任したのが、森有礼です。彼はドイツの教育制度を参考に、小学校から帝国大学までの学校制度を整えました。「国家に役立つ人間をつくる」という彼の信念が、第2次世界大戦までのわが国の教育を方向づけたのです。
若くして、海外事情に目覚めた森は、17歳の時、五代友厚らと共に19名の使節派遣留学生に選ばれ渡欧しました。帰国後は新政府の外交官として、清国やアメリカに駐在しました。このような、海外経験から、彼は常に文明開化の先頭に立ち、閉鎖的な思想を批判し、西洋文化を紹介し広めることに努めました。廃刀論・信仰の自由・男女同権・一夫一婦制、さらには「英語を国語に」という提言や西洋風の結婚パーティ、契約結婚の実行など当時としては、極めつけのハイカラさんだったようです。ところが、時代はまだ、そんな彼を受け入れず、伊勢神宮参拝で不敬行為があったと、噂され、1889年(明治22年)憲法発布日の朝、官邸で刺殺されました。
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篤姫の父・今和泉島津忠剛(ただたけ)の墓地を訪れて

このところ、指宿へ行くことが多くなり、篤姫の実家、今和泉島津家の所領地であった地を通る機会が増えました。当主をはじめ、一族は鹿児島市内に居住していましたが、亡くなったら今泉の菩提寺に弔らわれるのが、習慣でした。 今日はその墓地を紹介します。
ここの墓地には、今和泉島津家初代から6代目までの、代々の当主や、その家族をあわせて、13人の墓があります。天璋院篤姫の実の父である島津忠剛や兄の忠冬も、この墓地に葬られていました。
今和泉島津氏は、薩摩藩の分家としても有力な家柄であり、幕末期において、重要な役割を果たしました。
以前ここに来て、分かったのですが、篤姫の父の忠剛は島津家からの養子として今和泉家に来た人だったんですねぇ。ですから、篤姫の養女話や久光からの養子も互いの家が、数ある島津の分家の中でも血縁的に近かったということだと思います。
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鹿児島アリーナと山下洋輔さん。

鹿児島市の永吉町に、鹿児島アリーナという施設が有ります。
多分鹿児島県では一番多くの人間を入れる事ができるので、バレーボール卓球等、スポーツの試合や、大物ミユージシャンのコンサートによく利用されています。この地は以前、鹿児島刑務所がありました。
設備が古くなり、湧水町(旧 吉松町)に移転しました。
国内でもあまり例の無い、バロック様式の建物でしたので、取り壊しを惜しむ声も多く、正面の門だけが今でも残されています。
日本を代表するジャズピアニスト、山下洋輔さんのおじい様が、設計された事でも知られています。
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河邊氏のお寺・宝光院跡を訪れて(南さつま市)

知覧と言えば、特攻記念館や武家屋敷などで有名な観光地ですが、遠い過去においても、いろんな歴史を秘めた町です。印象に残ったお寺がありましたのでご紹介します。

知覧の中心部から車で20分ほどのところに、川辺というところがあります。前は川辺町でしたが、町村合併により、今は南さつま市に組み込まれました。この町には、河邊氏という豪族がいたことがわかりました。おそらく、知覧や伊集院などの氏族と競い合っていたのでしょう。この一族はかなり強い豪族だったようです。近くには、松尾城跡などの史跡もありましたが、まだ確認する時間がありませんでしたが、この河邊氏ゆかりのお寺を発見しました。宝光院というお寺で、当時としてはとても大きなお寺だったようです。残念ながら、明治2年に壊されてしまいましたが、その跡を見つけることができました。入り口の任王像や大きな宝篋印(ほうきょういん)塔や少し離れたお坊さんの墓地あとから、かなり大きなお寺だったことが偲ばれます。国の指定ではなく、町の指定の史跡ですが、何百年もの間、この川辺を守り地名も残すほどの殿様が居たんだと思い、写真を写しながら歴史の深さを痛感した次第です。それにしても島津氏は、大変な土地に赴任してきたものだと今更ながら思います。この様な地方豪族との戦いにつぐ戦いの歴史の末、ようやく薩摩、大隈、日向の三国を平定したのですから。
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以前1回触れましたが、維新の志士から大阪の経済界を作った人

1878年(明治11年)株式取引所と商法会議所を設立し、自ら会頭に就任して勢力的に商都・大阪の発展に尽くしました。
1885年(明治18年)病気のため49歳の生涯を閉じました。
大阪の経済界発展の基礎を築いた彼は、阿部野墓地に葬られています。
世の中のほとんどの士族が、まだ武士としての己を捨てきれずに生きているとき、彼の目はすでに、大阪は海に面して、しかも川があることに目を付け、 この地を東京に匹敵する程の、一大商業圏にしようと考えていた人間がいて、しかもそれが薩摩人だった事は驚きです。武の国薩摩にもそんな人がいたんですねぇ。
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海浜院跡を訪れて

海浜院とは、明治38年(1905年)医師・中江佐八郎が、結核の大家といわれた加藤好照と共同で、ここ鴨池に設立したサナトリウム(結核治療院)のことです。結核は、結核菌の感染でおこる慢性伝染病で肺臓をはじめ、体内の内臓が侵され、そのころ国民病ともいわれ、多くの人々がこの病いに苦しみました。
加藤好照は、中江佐八郎の相談を受け、オゾンをたくさん含んだ海岸地帯に専門の安静所を建てようと努めました。海浜院は3年がかりで完成しましたが、その広さは、約33,000㎡(約1万坪)にも及び、鹿児島名物の一つになりました。また、そのパノラマ模型は、万国博覧会で、特別賞を受けたといわれています。大正12(1923年)、日本赤十字社がこの病院を引き継ぎましたが、現在は平川に移転しています。
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篤姫にも負けない、薩摩女性の鏡といわれた乃木静子

・・・・身を殺して仁をなす・・・・将軍の妻として、軍人の妻として・・・

戦争にいく夫にお守り札を持たせようとしましたが、「ばかばかしい」と相手にされなかったので、密かに夫のズボンの縫い目にお守り札を縫いこんだという、微笑ましいエピソードが残っています。

静子は薩摩藩士・湯地定之の四女(第七子)で、幼名を「お七」といい、20歳の時、乃木希典(まれすけ)に嫁ぎました。後に日清戦争の勝敗を決定づけた203高地の戦いの指揮官として名を残した乃木は、長州の出身で、西南戦争にも官軍の連隊長として参戦しました。静子は女学校時代から「湯地の娘が男なりせば」と嘆賞されたほどの才女で、貞淑温順にして、きわめて質素、勤勉だったといわれます。明治36年、日露戦争で二人の息子を失った時も、大将の妻として御国の役に立てたことを喜ぶという立場から、悲しみを胸中深く閉じ込めて、涙一つ見せなかったほどの烈女でありました。乃木希典が世界的な人格者といわれるのは、この静子の内助の功のおかげと言っても過言ではありません。
1912年(大正元年)9月13日、明治天皇のあとを慕って、乃木将軍とともに自刃しました。

辞世 出ましては かへります日の なしときく 今日の御幸に あゆぞ悲しき
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鴨猟は薩摩から始まった?

江戸時代、現在の鹿児島市・鴨池に黒木屋敷という薩摩藩の屋敷があり、邸内には大池がありました。池の中には、鴨がおり、周りは土手や密集した竹等で囲まれ、外から直接見ることができないようになっていました。
冬になると、たくさんの鴨がやってきて、鴨狩りが楽しめたということです。その時は、朝から狩客でにぎわい、昼時には、獲物を鉄板で焼きながら食べていました。鴨はこの食べ方が、最も美味だとされています。その後、黒木屋敷を島津家・第29代・忠義が譲り受け、昔からあった池の近くに新しい池を掘り、鴨にエサを与えて禁猟区にしたので、鴨の数は増えるばかりでした。忠義は、時々ここで、手編式鴨猟を行いました。そのため、人々は「鴨池」とか「鴨堀」と呼ぶようになりました。
人工的に猟場を作っての鴨猟については、全国にあまり例がなく、皇室の千葉県新浜ぐらいですが、一説によると、鴨池の鴨猟が日本で最初だったとも言われております。


示現流の祖、東郷拝領屋敷跡.

薩摩独特な剣法、示現流は、東郷重位が京都で修行したものを基に、編み出したものです。そして慶長9年(1604年)に第18代島津家久の御前で、新しい剣法を披露し、その業は見ている人々を驚かせました。そのとき家久は、重位に薩摩の剣法の指南役をまかせ、家禄一千石を与えました。それから後、示現流は薩摩藩独特の兵法として、武士の養成に重要な役割を果たすことになったのです。
また、重位のすぐれた弟子であった薬丸兼陣は、重位に教わって薬丸自顕流をおこし数多くの剣士を育てています。
東郷重位が拝領した屋敷は、現在の山下町(市役所敷地の西側)であり、今日の、この地は第4代・東郷實満のとき、改めて拝領した場所です。
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安藤照誕生地

彫刻家、安藤照は、1892年(明治25年)現在の鹿児島市立病院の北東の一角で生まれました。東京美術学校在学中に、帝国美術(帝展)に入選したのをはじめ、その後、「流れ」「芽生え」「踊りの構図」「大空へ」が、次々に特選になり、「大空へ」は第一回帝国美術院賞を受けました。のちに、帝展委員、審査委員となり、彫刻の本能的な量感の表現を主張し、1929年(昭和4年)塊人社を結成しました。代表作に、西郷隆盛像や中犬ハチ公銅像があります。
びっくりしたのは、ハチ公銅像を作った人だったことです。本当にびっくり、鹿児島の人だったとは!
そういえばハチの物語は海を越え、2~3年前ハリウッド映画化されました。あまりヒットしなかったようですが(笑)。
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